世界はことばでできている

〜成人期発達障害&聴覚障害者の日常〜

聴覚障害+成人期発達障害(ADHD)が日々考えていることや、聴覚障害者・発達障害者として生きていくライフハックを書いてます。あと、ニュースやら軍事やらについても飛びつきます。とにかく雑多なブログです。

思考メモ

ブログに出戻るということ/そして世界は美しい

あおがブツブツ言っている。

あおは独り言が多い。特に作業中はそうだ。
つまり、あおはいま作業中ということだ。
そして、その作業をお願いしたのはボクだ、ということで、あおのひとりごとはボク一人で耐え忍ばなければならない。

なにをさせているかというと、このブログのヘッダーを作らせている。
見ればわかると思うが、いまブログのデザインをまともに見られるように改装中だ。
しかし、ブログを立ち上げたのは数年ぶりであるが、本当に簡単になったものだ。

ボクが最初にホームページをつくったのは高校時代で、ジオシティーズというものがあってだな。
侍魂の影響をもろに受けたテキストサイトが雨後の竹の子のようにできてた時期にだな。
ろじっくぱらだいすとかが大好きだったという時点で、内容はまぁ察していただきたい。
そのホームページをまだ覚えている人がいたら、即効脳内から削除することを依頼する。
 
話がそれた。
なにげにホームページを作ってから14年以上経つ間にネットコンテンツを作るツールも発展を遂げた。
以前は見よう見まねでコピペしたツールをあーでもないこーでもないと弄くっていたのが、ドラックするだけでレイアウトが完成していく。
31歳のオジサンとしてはもはや感動的とも言えるくらいの簡単さだ。

しかし、だからといってネットに良質なコンテンツが溢れているのかというと、残念ながら話はそう簡単ではない。
簡単になったのは「器」の作り方だけなのだから。

「良いブログ」とは「中身」がなければならないとボクは思う。
でなければ、SNSから出戻ったモノとしては「ブログの意味」がないからだ。
写真をアップして「美味しかった」とかくだけなら、過去ならいざしらず、今でもそれで拡散力を持つのは芸能人くらいだろう。
10年前ならいざしらず、そういうことを書くならSNSのほうが簡単だし反応も得やすいだろう。
実際、ボクもここ5年ほどはツイッターとFBにお世話になりっぱなしだ。
 
それでも、ボクが「ブログ」を書く意味とは、やはり「文章を書くこと」の原点に立ち返りたくなったからだ。
文章を書くということは自分との対話だとよく言われる。
臭い話だが、セルフカウンセリングともいえる。
ともすれば、外側に重心を移して(放り投げてともいう)罵詈雑言の応報に明け暮れやすいのもSNSだ。
それに比べれば、ブログは(まだましな意味で)閉じているだろう。
そして、「閉じている」からこそ、一つひとつの言葉を選び、自分の伝えたいことを発見していく。
その自分との対話の果てにできたものを人に見てもらい、それを評価してもらう、というのが非常に楽しいのだ。

どれだけ簡単にブログという器を作れても、その中身を作るのはボク自身だ。
このブログがどう成長していくか。
それは今後のボクの頑張りにかかっている。

まぁ、あおなんかは「テキトーにやりなよー」と言いながらヘッダーを作っているのだが。

ところで、ブログがどんだけテンプレートを準備していても、テンプレートから外れたことはとたんに難しくなる。
これについては、発達障害の問題と構造化、というができそうなのだが、今後膨らんだらまた考えてみたいテーマだ。
 
というところで、あおがヘッダーを作り終えたので、これくらいで。
 
ああ、なんの中身もないブログ記事だった。

ところで、あおが「あんたの新しいブログのタイト、随分前と変わったね」という。

あお「『明日なんて信じられない僕らのために』だっけ、最初のHPのタイトル」
俺「やめてください死んでしまいます」
あお「随分、世界を信じられるようになったね」
俺「そうかもしれんな、いや、そうなのかもな」
あお「たぶんね」

まぁ、そういうことなのだろう。ありがとう、あお。

恵まれているという罪悪感と贖罪

俺は恵まれているのだろうかと最近良く考える。
いや、考えなくても良いのだが、この度、1件重大なことが起きたのである。

twでは何度か触れたが、自分にADHDがあることが判明し、投薬しつつ仕事をしている。
しかし、ADHDのことはなかなか自分でも消化しきれず、あまり積極的には発信していなかったのだが、精神的にも肉体的にも苦しくなってきたことがあり、ADHDを職場にカミングアウトした。

その結果はこのとおりであった。

このまとめの大事なポイントは「くらげさんはできないことたくさんあるのはわかったけど、情報収集能力、分析力、文章力は高いからそれを活かすべきだし、上司としてそういうわりふりをしなければならない」と課長が言ってくれたことだ。
これは、上司が自分の能力をちゃんと理解してくれたということだろう。
自分の能力、すなわち文章力を理解してくれる上司がいたことは「恵まれてた」と言えるだろう。同時に「俺に文章を書く能力があった」ということも「恵まれていたこと」であろう。

ちょっと振り返ると、前職は主に障害学生支援の事務作業であった。しかし、やはり事務作業がダメだった。上司との折り合いが悪いのもあり、精神的に病んで5年で退職した。1年間、復職訓練をしながら求職活動をした。2年前の10月末までに仕事が決まらなかったら別れる、と言われていた。10月31日に勤務開始した。非常にギリギリであった。

あおは「あんたはいつも余裕が無い」という。確かに、金銭的にも肉体的にも精神的にもお互いギリギリのところでどういうわけか助かっている。しかし、余裕が有るわけではない。我ながら常にぎりぎり死なないで生きている、という話である。ギリギリでも生きていられることに感謝するべきか、余裕が無いことを嘆くべきかわからない。

しかし、障害が一つでも苦労する人が多いことを考えれば、3つ重なった状態で仕事をして自活できているということは喜ぶべきなのだろう。
 
そんな中、twである方のツイートを見た
このツイートをみて、「俺は恵まれているのか」ということについて再び考えこんだ。

俺は雑務ができないが、雑務が多い分野の部署にいるし、その中できついことも多々ある。特にものを数えたりする作業は肉体的苦痛を伴う。体が痛むのである。そういう意味では、今の仕事は向いてないのであろう。
しかし、課長にこの窮状を訴え、雑務の担当業務を外してくれた。
そのかわり、「別な分野のことで能力を最大限に発揮してほしい」ということである。

よく、障害者の就労については「できないこととできることをしっかり区別をつけてできることを伸ばせば良い」という話がある。確かに「聴覚障害」の部分については「電話ができない」「声でのコミュニケーションが取りにくい」という面は明らかになっている。しかし、ADHDについては、いまでもまだ「何がどこまでできるか」の区別はよくついてない。「これは肉体的に痛みを感じるから厳しい」という漠然なものである。

その、漠然なことを、なんとか言語化し、文章にして課長に伝えることができた、これもまた才能なのだろう。

まぁ、自分も暇な時間に自主的に課の改善案等についてコツコツ書いていなければこのような結果にはならなかったし、何より著作があることが何よりの「くらげは文章力はある」という証拠になっていた。それに、雑務ができなくても課長がいろいろ悩んでいるが書類を作る時間がない、というようなことを俺に任せれば良い、と気づいてくれた、といういろいろな要因が絡んだ結果でもあるのだが、今回のカミングアウトでの「成功」を導いたのは俺に文才があった、ということは大きな要因であろう。

つまりは「芸は身を助ける」ということか

まぁ、この取組は始まったばかりなのでこの先どう動くかは分からないが

とりとめもなく書いたが、まぁ、俺は「恵まれている」のであろう、ということを一つ確認することができた。喜ばしい限りである。

ところで、以前なら「恵まれていること」について罪悪感を覚えていた。しかし今は自分とあおの生活を成り立たせるために前に進まねばならぬ。罪悪感はないわけではないが、それを背負い、「恵まれてる」という自覚だけは忘れず生きていく。その先に余裕が生まれてから罪悪感を贖罪すれば良い。

まぁ、頑張れ俺。

ゆらぎ続けること

こんばんわ。くらげです。
ブログ始めました。
当面、このブログが仮の公式サイトとなります。
そのうちドメイン変更したりなんだりしてちゃんとした公式サイト作りたいと思いますけど。

で、なんで急にブログを始めたのかといいますと、割りと思索的な問題でして。
かっこ良く言えば「言葉の力を失いつつある時代への抵抗」というところでございます。
平たく言ってしまえば「ツイッターに飽きた」ってことなんですけどね。

ここ数年間、いろいろツイートして、色々な動きを見てきました。そして、ツイートをきっかけに本とか出しちゃったんですけど、最近のツイートの動きを見ていろいろ考えることがありました。

ツイッターのいいところは他の人の共感した言葉を簡単にシェアできること。つまり、拡散力が非常に強いツールです。それを通してコミュニケーションをとったり、いろいろ縁ができたり、社会問題に取り組んだり。
でも、その拡散された断片を見て満足していないか。自分の言葉の失っていないか。
また、「人に流されることなく自分の頭で考える」という作業をサボっていはいないか。

そういう目でツイッターを見返した時、「言葉の力」を失う使い方を俺はしてるんじゃないかと感じたわけですよ。
 
「言葉の力」とは何かッて言われると困るんですけど、ちょっと考えると「人に変化を促すこと」なんじゃないかと。
いや、ツイートの言葉が人を動かさないってのがないかってと、そうではない。むしろその逆。
でも、「咀嚼する余裕」がすごく少ないツールなんじゃないかと。人間、「言葉に対する咀嚼」が少ないと、どんな情報を入れても「生まれてきてからこれまで身につけてきた思考の型」によるある意味「量産型」の意見しか書けないんじゃないかという。それ、思考が惰性に陥り知性は劣化する一方なんじゃないかという危機感を覚えるわけですよ。

で、それを考えた時に「言葉」って「ゆらぎを生む」って機能もあるよねって思うわけですよ。

折しも「ADHD」という障害をもってるって言われてました。
それで、じっとしてられない俺は「ゆらぎつづける」ってことだけは得意です。
子供の頃から「自分に軸はない」って思ってるから「波に漂うくらげのようだ」ってことで「くらげ」ってハンドルネーム作ったわけなんで。

話を戻すと、だいたい人間、30もしたら「思考の型」ってだいたい固まっちゃう。軸がない俺でもどんどん固まっていくのを日々実感するわけで。バッキバキに。ツイッターで何見ても「決まりきった反応」しかしないし、だいたい枠にハマった言葉しかツイートしないし。(そもそもツイートしたい話題がないってのもある)
それ、今後も作家をしていきたいって人間としてどうなんよ、と。このまま情報に溺れて、快・不快だけでツイート選んで反射的な反応返して情報の哲学的ゾンビになるのかと。

でもさ、俺、ゆらげるじゃん。
無理に考えを固めて揺らがないってのが無理なんだよ、俺は。

じゃ、揺らごうって。
一人でPCに向かって一人で「思考をゆらがせる時間」を作ろうって。
即座の反応を得るためではなく、自分の内側との会話をもう一度始めてみようって。
だから、人に読まれないのを前提にブログで書いてみようって。時間かけてじっくりと。

「なら、日記に書いておけよ」という話なんだけど。
でも、せっかくなら頭の中身を晒したいじゃない。
これを気まぐれに読んだ人に少しでも「ゆらぎ」を起こせればいいなって。
 
それが「言葉の力が弱まってる時代」への僅かな抵抗だったらいいなって思う。

まぁ、次の本のための布石・メモ帳でもありますけどね。

というわけで、暇なときのちょくちょく書くと思うんで、よろしく。
くらげについて

聴覚障害(2級)とADHD(診断あり)と躁うつ病患者の三重苦ですがなんとか自立して生きてます。 このブログは障害者としていく意味やらライフハックやら時事ニュースを取り扱っていきます。
同じく発達障害の「あお」と同棲中。結婚はまだかと急かされています。
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