世界はことばでできている

〜成人期発達障害&聴覚障害者の日常〜

聴覚障害+成人期発達障害(ADHD)が日々考えていることや、聴覚障害者・発達障害者として生きていくライフハックを書いてます。あと、ニュースやら軍事やらについても飛びつきます。とにかく雑多なブログです。

思考メモ

障害が治る薬があったら飲むか?

あおが最近なぞかけをする。

「1週間飲み続けるだけで聴覚障害や発達障害が治る薬をあれば飲むか」という問いである。

なぜこんな質問をするかというと、この前のブログに書いた「オキシトシン」のことが気になるらしい。


「もし、障害が治る薬があったら飲みたいか」という命題がずっとぐるぐるしているそうだ。


あお「で、そういう薬あったら飲む?」

俺「ボクなら飲まないと思う」
あお「なんで?」
ボク「ボクはこの身体で31年生きてきたからね、今更耳が聞こえるようになったところでどうしていいか逆にわからん」
あお「ですよねー」
ボク「じゃ、お前は飲むの?」
あお「ウチものまんなぁ」
ボク「なんで?」
あお「あんたと同じ理由だよ。この悪い頭だけどさ、これでずーっとやってきたわけ。今更「頭良くなりますよ」って薬渡されても、今の生き方以外、できる気がしないんだよね」
俺「ですよねー」

ボクらは「不幸」にも障害を持って生まれてきた。


しかし、この「不幸」と30年前後寄り添って生きてきたのだ。


今更「不幸」でなくなることなんて、なんて逆に「不幸」なんだ。


たとえそれが真人間としての道を歩めないとしても。

ボクらの人生が、誰かのオルタナティブではない、オリジナルの人生を生きる重しにして証。
それがボクらの「誇り」だ。

ボクらは「不幸」を背負って生きたし、これからも生きていく。


だから、ボクらから、障害を奪うな。

ボクらは、「障害」を乗り越えない。
でも、悲観もしない。楽観もしない。

ただ「生きていく」のだ。


命がある限り。


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それはともかく、酒がうまいのである。


旨い酒が週末に飲めればだいたいのことは幸せであるな、うん

 

ボクのダメ方程式がなんとなく見えてきた

今起きたことをそのまま書く。

あおが「あんたがいま着ているTシャツ、俺のじゃね?」という。
異様に裾がめくれいているらしい。
ボクは「そんなわけないじゃないですかー、やだー」とTシャツを脱いでサイズを確認したらMであった。
ふたりとも一瞬固まったあと「「ありえねー!?」」と叫んだ次第である。

あお「うちがTシャツないないと探してたらお前かよ!」
ボク「なんでお前のTシャツがボクが着られるんだよ!おかしいだろ!」
あお「そんな逆ギレ知らねぇよ!うちのボケかと思ったらお前の大ボケかよ!Tシャツ探してた時間返せよ!」
ボク「しらねぇよ!」
あお「っーか違和感なかったのかよ!」
ボク「違和感はあったよ!でもそのまんまにしてたよ!」
あお「違和感!違和感仕事して!あんたの仕事なみに仕事してないよ!」
ボク「本業では一部は優秀だよ!大体無能だけど!」
あお「全体的に有能になれ馬鹿!」

とかこんな大騒ぎしてたわけですけど。

ところで、ボクはADHDのどうかわからないのだが、違和感が本当に仕事をしないことがある。
今までやらかした違和感が仕事しなかった例を列挙するときりがないが、いくつか上げる。
・蓋を開けたままタンブラーを鞄に放り込んだ。(蓋が開いているのは認識していた)
・濡らしていはいけない書類を雨の中そのまま運んだ。(濡らしてはいけないことは十分承知の上だった)
・身体障害者手帳を胸ポケットに入れたまま洗濯機に突っ込んだ。(これは手帳の存在を忘れていた)
・誤字脱字に気がついてもそのまま送信ボタンを押してしまう。(これは日常)
・USBが刺さらないと3分位格闘していたら実はHDMI端子だった。(これも日常)

うん、ダメ人間すぎる。
本当に「書くこと以外は無能」である。
(ここまで書いたら、あおが「手書きも汚いからタイピング以外無能と書け」といわれる)
あ、「あおに食事を作る」ということに関してはまだましか。

で、どうも、「わかってるけどやってしまう」というのがボクの特徴としてあるようだ。
何故かというと、Aという動作をしようとしている最中にBという情報が入ってきても、Aという動作を続けようとする慣性力がすごく強いようだ。
ふつうは「違和感」としてストップがかかるものがかからない。

さっきのシャツの件で言えば、「シャツを着よう」という行動を起こして、頭のなかはシャツを着ることでいっぱいである。
で、あおのシャツを(たまたま)取ってしまったのだが、頭はシャツを着るというという目的を覚えていることで精一杯でそのシャツがどんなのか注意を払う余裕が無い。
そして、おもむろに着る。
その時点で、「キツい」という自覚はあるのだが、「おかしい」とはどうも思わないのである。
せいぜい「洗濯して縮んだかなー、こんなシャツ持ってたっけかなー、まぁ、いいや」というくらいである。

整理しよう。
ボクの不注意によるミスというのは

「違和感が仕事しない」+「動作をキャンセルできない」+「まぁいいかで適当に済ませる」+「思い込みが激しい(しかも勝手に思いつく)」

という壮絶にどうしようもないものの上にどうしようもないことが重なっているような気がするのだ。

いや、そこまで分析できるなら直せよ、といわれそうだが、分析できてもそれがどうにも止まらないのがADHDがADHDである所存である。

なにかいい方法はないかな、とは思うのだが。

特に深刻なのは「動作をキャンセルできない」か。
一旦始めたら、その「始めたこと」に意識が集中して他の情報が目に入らない。
いや、入っているのだが、頭で処理できないというか。風景としかうつらないというか。

という話をあおにしたら「よくあんた今まで生きてこれたよね」とまで言われた。
同意しなくはないが、こいつだけには言われたくないとは心底思うのではあるのだが。

で、あおは
「つまり、あんたはバックアップをとらずに動いてるシステムなようなもんね」
 という。
「どういうことか?」
と聞くと
「さきのプログラムを動かしてて、突発的に別なプログラムが動くとそっちが動いて先のプログラムが消えちゃう」
というのである。
「あとさ、あんたの頭のなかに「別名保存」がないんだよ」
ともいうのだが、なるほど、納得である。
いや、納得してもしかたがないのだが。

あお「あんたは本当にワープロだね」
ボク「なんで」
あお「書くことしか能がないってよくいうやん、あと保存ができないし、よく消えるし」
ボク「せめてWindows95になりたいです」
あお「MS-DOSからやね」
ボク「そこからかよ!」

さて、どうしたらOSを改良できるのか。
っーか、できるんでしょうかね、ってところで今日はこのくらいで。

なお、この原稿はあおから誤字脱字をチェックしてもらってますが、すさまじいことになっていたことを報告いたします。

【過去記事転載】人工内耳ユーザーとしての雑感(2010年度バージョン)

こんにちわ。

ちょっと、過去に書いたものをサルベージしたので転載しておきます。

人工内耳への問い合わせは時々頂くのですが、一つ一つお答えする時間があまりないもので、この記事を送付していました。

今回、ブログ開設にあたって、2010年の記事を改めてアップします。

近いうちに最新版を作りたいと思いますが、先程も問い合わせがあったので、つなぎとして。

【以下転載】

お久しぶりです。 
私の母親が今度請われて人工内耳についての講演会で講演をするため、私の意見も欲しいとの事で、母への返信で私の人工内耳に関する雑感を書いてみ ました。大変長いですが、自分の見解がかなりまとまったと思っており、人工内耳をつけようとしている方の参考に少しはなるのではないかと思い、メール内容 を公開してみます。人工内耳に興味のある方に一ユーザーの意見として読んでいただければ誠に幸いであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・
以下転載です(一部伏字) 

こんにちわ。 
メールありがとうごいます。 
質問点についてちょっと細かく解説いたします。 

> 不便な点も多くあるけど、良くなった点もあるわけですよね。 

私の場合は人工内耳がよく適合していたので、トータル的に考えてよかったと思います。 
 
特に、聞き取り能力は手術後1年あたりから非常に向上し、環境にもよりますが、初対面ではまず耳が悪いと気付いてもらえないレベルです。(前もっ て耳が悪いと伝えることが殆どですが)
 
ただ、前に比べて向上したという話であって、完全に健常者と同一とは行きません。
健常者と難聴者の狭間で、どのような支援をしてもらえばいいの か、というのは非常に悩むところです。
 
職場や○○○の勉強会でも最初20分~30分はほとんど支援なしでも話が理解できるのですが、それを超えると疲れて聞き取りに支障が出ることがあ ります。 
 
また、人工内耳の影響とは外れますが、もともと、長い会話を音声だけで長時間聞き取るという訓練を殆どしていないため、短いセンテンスを的確に捕 らえる事は出来ても、それを話全体にあてはめて理解するというのは苦手なので、長時間に渡る会議や講演はPCテイクやノートテイクが必須になります。
(そういう意味では、子供のころから人工内耳を付けて訓練するというのは有効だと思います。しかし、単語単語を聞き取るだけではなく、話されている文章全体の 意味を理解するという訓練が重要だと私は思うのですが、実際の訓練はどうなんでしょうか?) 
 
言葉は理解できても、文脈がなかなか理解できないため、一度文章化されたものを見ると言う過程が話の理解向上につながるのですね、私の場合は。 

「声は聞こえるが文脈は理解できない」という事を伝えるのがなかなか難しく、聞こえてるから・話せているから支援は必要ないじゃない、という対応 を取られることがあります。 

また、私自身も支援を受けるのを臆して、(相手が忙しかったり、人手が無かったりした場合)は声が聞こえるからいいかな、等と考えて支援を申請し ない場合もあります。 

なので、人工内耳を入れたことで、入れなかった場合よりも、支援を受けるのは難しくなったな、というのはありますね。(自分の意識的にも、支援側 にとっても、です) 

ただ、支援なしでも、人工内耳が無い場合よりも理解できる絶対量は確実に増えているので、元々支援を得られない場合については人工内耳は非常に有 効なのは間違いないです。 

> 補聴器と比べて、重いですか? 

付けた直後は重さを感じる事がありますが、まぁ正直気にするほどではないですね。 
むしろ、補聴器より動きによって外れやすい事がちょっと問題でしょうか。もうちょっとフィット感がいい人工内耳が出ないかとは思いますね。 

> また聴こえ過ぎて雑音や生活環境音がうるさく聞こえるのですか? 

私の場合、子供のころから補聴器を付けるのは必要な時でして、人工内耳もその延長で必要な時だけ付けています。 
その為、未だに雑音や生活環境音に慣れておらず、聞き続けるのが非常に苦手なのです。 

(弟)からは何時もつけてるように言われることもありますが、私の場合、そのような音が聞こえないのが当たり前なので何時も補聴器や人工内耳を付 ける気はないんですよね。 

チャイムが鳴った事に気付かなかったり、道を歩いているときに後ろから車が来た場合は危ないのは分っているのですが…。 

人工内耳をつけてから、本当に小さな音でも気付くので、聞こえる生活環境音の幅が非常に広がりました。便利な点もあるのですが、やはり喧しいとい うのが本音です。 

人工内耳を常に付けているか、必要な時だけ使えばいいのか、についてはユーザーによるんじゃないでしょうか? 

多分専門家は常に付けていることを推奨すると思いますけどw 

> 音楽は補聴器の方が聴こえやすいとか言っていましたが、今はいかが? 

音楽については、補聴器も人工内耳も付けずに聞いています。今はそれでも特に不便は感じていますせん。 

補聴器や人工内耳を通して音楽を聞くと、生耳で聞いてると音と別物に感じて訳がわからなくなるのですよね。 

ただ、今以上に右耳が聞こえなくなったら人工内耳や補聴器を通して音楽を聞くことになると思います。 

そうしたら、人工内耳を通しても普通に音楽を楽しむことになるんじゃないでしょうか。 

試しに人工内耳を通して音楽を聞いてみると、確かに細かい音の差が分るのですが、生耳で聞こえない部分も聞こえるので違和感がありますね。 

> 補聴器と人工内耳を装用しているけど、人工内耳単装と比べるとどうでしょう? 

これは、前に先生に話した事があるのですが、絵に例えて説明します。 

人工内耳は非常に輪郭がはっきりとしたシャープな絵ですが、モノクロの絵のイメージです。 
逆に、補聴器は輪郭ははっきりしないけども、カラフルな絵の感じです。 

なので、両方同時に聞いて初めて絵の全貌が理解できる、というのが私の感触です。 

分りにくいと思いますので、もうちょっと解説すると、人工内耳の音は言葉がシャープに聞こえるのですが、音に厚みが無いのですよね。(最近は人工 内耳単体でも厚みを感じるようになりました) 
厚みが無い声というのは、なんか無機質でロボットみたいな声です。(多分分らないと思いますが、初音ミクの声もあんまり厚みが無いと思います。そ んな声です) 

逆に、補聴器は声の厚みは感じるのですが、言葉の輪郭があやふやに聞こえる感じです。 

両方付けた場合、頭の中で合成されて、厚みがあってシャープに聞こえる声になるんですね、私の場合。 

説明が非常に抽象的ですいませんが、こんな感じです。 

逆に母はどう聞こえているのかが気になりました。 

> (私の名前)だったら、自分と同じような聴力の人に人工内耳を勧めますか? 
非常に難しい問題です。というものも、私の場合、聾と難聴者のアイデンティティという問題を考えてしまうからです。 

私も人工内耳を付けるとき、非常に渋ったと思いますが、これも自分のアイデンティティの問題があったからです。 

私は聾学校で過ごしていて、私よりも全然聞こえない人と普通に接していたため、自分も聞こえない事が当たり前だ、自分は聾だという意識がありまし た。 

更に言うと、他のみんなより聞こえる自分に罪悪感を持ったりしていたわけですね。 

もちろん、人工内耳を入れるメリットは理解していましたし、興味もありました。(科学やSFは大好きですから、自分の身にどのような変化が起きる かに興味はありました) 

ただ、人工内耳を入れる事は聾ではなくなる、いう意識があるのと同時に、さらに聞こえるようになる事に対して罪悪感が乗じて複雑な葛藤が生まれた わけです。 

結局、好奇心と社会に出てからの事を考えて人工内耳を入れる決断をしたわけですが。(社会人になってから人工内耳を入れる時間はないと思っていた のもあります) 

で、同じような聴力の人に人工内耳を薦めるかと言えば、相談があれば人工内耳のメリットは説明しますが、デメリットも説明して、後の決断はその人 に任せます。 

聴力についての考えや辛さ、人工内耳に関する認識はその人その人でバラバラだと思いますし、それを尊重したいと思うからです。 

なので、特段こちらからお勧めをすることはないでしょう。人工内耳の手術を受けて聴力が向上する事だけがいい事ではないと思うからです。 

ただ、私の中でも結論が出ていないのは、幼児に対する人工内耳手術の賛否です。 
というものも、先ほど私が書いた意見はあくまでも「本人の意思による」事が前提になっていますが、本人の意志がはっきりしない幼児の段階で人工内 耳を入れる事ははたしていいことなのか?と思うからです。 

臨床データでも幼児の早い段階で人工内耳を入れる事が言葉の発達にいい影響を与えると言う結果が出ていると思われますが、運動に制限を受けたり、 キツイ訓練を受けたりする必要があるわけです。

また、今の段階でも幼児期に人工内耳を入れても、確実に聴力が回復するという保証はありません。
幼児期の場 合、その結果が分るのは何年も先でしょう。人工内耳を入れたから、確実にその子の未来が明るいとは限りません。

また、その子自身が大人になってから人工内 耳の手術を受けさせられた事を否定する可能性もないわけでもないと思います。 

幼児に人工内耳を入れる事は、大きなメリットが期待できると同時に、大きなリスクを孕んでいることも考えると、気楽に幼児に人工内耳を入れる事を 薦める気にはなりません。これは親の覚悟の問題になると思います。 

親に言う事があるとすれば、安易に人工内耳を入れる事で、子供が健常者と同程度になれると思ったら、親本人も子供自身も大変な挫折感を覚える事で しょう。 

人工内耳を入れるという事は、健常者とは全く違ったタイプの音を脳内で言葉として理解しなければならないという事で、当然訓練が必要でしょう。 

私の場合は、言語能力はそれなりに訓練を積んだ状態で人工内耳を入れましたが、それでも最初の半年間は常に耳の中でセミが鳴っている感じで、人工 内耳を入れた事を後悔したほどです。 

その苦痛を幼児が味わうとしたら、目を離したらすぐに人工内耳を外してしまうのではないでしょう
か。慣れるまでは子供が泣いてもむずがっても人工 内耳を付けさせる苦労は並大抵ではないとおもいます。 

また、私自身はよく分らないのですが、幼児期の人工内耳の訓練は、おそらく過酷な物になると思います。
その訓練は子供にも親にも大変な苦労だと思 います。
それを経ても完全に健常者と同じようにコミュニケーションをとれるようになるのはごく一握りでしょう。 

そのような苦労を引き受ける覚悟が合って初めて幼児に人工内耳手術をする資格があると思います。安易な手術は絶対に慎むべきです。 

また、人工内耳をつけたからと普通学校に進学させるのも同様に問題を引き起こす可能性があります。 
人工内耳はあくまでも補聴手段であって、現在の技術では健常者と同じようになれるわけではないからです。
人工内耳と言う技術を過信する事は禁物だ と思います。 

例え、全く耳が聞こえなくても教育次第では充分に充実した人生を送れると思いますし、逆に人工内耳を入れても教育がなされなければ宝の持ち腐れに なると思います。 

聾児を持つという事は、人工内耳の有無に関係なしに、充分な教育を親・教師・その他関係者が充分な教育を注ぐ必要があるということだと私は考えま す。 

長くなった上に、人工内耳に関係ない事も多くなりましたが、今現在、私が人工内耳について考えている事の大半は書けたと思います。 

参考になりましたら幸いです。 

私が直接講演した方が早いのでは、と思わんでもないですが、人前で話す度胸も知識もないですねw

日本一早い発達障害者から「ニコニコ高校」へのラブレター

はわわわわ!?

一昨日書いた「障害が治る」という言葉は暴力であるが2日で3000UUを超えるという偉業を達成いたしました。

ありがとうございます。

このブログは基本的に多くの人に診てもらうことを目的に書いているものではないのですが、それでも多くのアクセスがあることはやはり嬉しいものでございます。

次は1日1万PVを狙えるように頑張りたいと思います。

さて、角川ドワンゴ学園「N高等学校」が2016年4月に開校するそうだ。

以前から「ニコニコ動画が高校を作る」という話は聞いていて、割と気になってはいた。
もちろん、「発達障害者が通いやすい高校になるのだろうか」という視点からである。

「ネットの高校」という時点で、まずよい。
基本的な講座やレポート提出はネットで完結するようだ。
障害児支援、とりわけ発達障害児の支援に関わった経験があるなら、このメリットは理解してくれると思う。

字をきれいにかけない、というか、書けない子が一定数いる。
しかし、タイピングならとても得意な子が多い。

また、レポート用紙をぐしゃぐしゃにしてなくす、ということもないだろう。
(ファイルの管理についてはまた悩むことになるのだが、検索というものがある)

受講時間もリアルタイムで講義に参加しなくとも良いようだ。これもポイントが高い。

発達障害者には非24時間生活者が大変に多い。
朝起きて当たり前に登校して授業を受ける、ということ自体に挫折することも多い。
怠けてるわけでもなく、ふざけてるわけでもなく、そういうリズムなのだから仕方ない。

だから、「自分の好きな時間で好きなペースに」とはいうまでもなく、発達障害者がやりやすい環境だ。

このシステムと似たようなものとしては放送大学がある。
機会があれば発達障害のある放送大学生を探して、インタビューしてみたい。
(通っている、という方がいればぜひ、右側のフォームよりメッセージを頂きたい)

というわけで、「ネットの高校」という単語にすごく興味は持っていたのである。

さっそく、「N高等学校」のサイトを読んでみた。
 
まずトップのスライダーに
「全国のみなさんへ 普通の高校生になって将来どうするの?」
とでかでかと出ている。

いきなり、こんな煽って大丈夫なんだろうか、とニヤニヤしながら心配してしまう。
しかも、そのスライダーをクリックすると「脱 ふつう。」と書いているのである。

自分らしさ伸ばそう、将来のために

「自分らしさ」をもっと出してもいいんじゃない 多くの高校生がみんな同じように学校に行く
それはなぜ? 周りのみんなと同じことが正解?
「自分らしさ」を磨いてみてもいいんじゃない 高校という時間はみんなに平等に振り分けられる
その時間の使い方を自分で決めてもいいんじゃない
勉強でもスポーツでも自分のやりたいことでも 「自分らしさ」を磨いて伸ばす時間を自分で作ろう
磨いて伸ばせば、好きなことで一流になることもできる
新しい時代には新しい時代に合った"学校"で 自分だけの高校生活を自分で作り出そう
脱 ふつう。
 
いいじゃないか。

少なくとも、「ふつうではない」ことにかけては太鼓判がふたつもみっつも押されているボクからすれば、すごくワクワクする。

まぁ、角川ドワンゴがわざわざ開設した時点で普通の高校生は入らないと思うし、イカれた親しか行かせないと思うので、「脱」もなにも最初から「ふつう」の生徒は集まらない気はする。

もちろん、角川ドワンゴもその点は大いに自覚しているのだろう。

カリキュラムからしてまぁ、「エキスパート」を育てよう、という意気込みを大変感じる。

発達障害者に向いている仕事は「クリエイティブ」なものが多いと言われる。(もちろん、障害の重さにもよるが)

というか、「クリエイティブにならざるをえない」といったほうが正しい。

「ふつうの仕事」では能力不足か能力過多になるから発達障害は発達障害なのであって。

そういう意味でも、N高等学校はやはり「とてもワクワクする」存在だ。

ボクはあおから「そろそろ髪の毛のケアに気を使いなよ。手遅れだけど」といわれるくらいのオッサンだが、入れるものなら入りたいくらいに面白そうだ。

だからこそボクはN高等学校に挑戦してもらいたいことがある。
「N高等学校」は「脱 ふつう」だけではなく、「ふつう」でない生徒を「ふつう」でないままに卒業させて欲しいのだ。

人間的な成長とは何かをボクは知らない。
でも、「ふつう」になることを、せめてこの高校は「成長」とはいわないで欲しいのだ。

たとえ一箇所でも、「ふつうでないこと」に価値のある高校がある。
それを信じることができれば、ボクはこの日本という国にさらなる希望をまた一つ見出すことができるのだ。

ボクの夢は、もっと日本を「変」な人であふれさせることだ。
それが日本を面白くする道と信じているからだ。

だから、頑張れ、N高。日本一変な高校になってくれ。
日本を「変」にするマイルストーンになってくれ!
 
これがおそらく日本一早い、N高へのラブレターである。

※N高からのお仕事お待ちしております。

「障害が治る」という言葉は暴力である

ボクは朝はNHKニュースをつけっぱなしにしている。
 
一つ一つ見るわけではないのだが、今、このコーナーだからこうしなきゃ、という目印にしているのだ。
なので、さっと目を通しはしてもじっくり見ることはあまりない。
 
ところが、今日はちょっと気になる特集をしていたので、ちょっとじっくり見てしまった。
「自閉症の治療薬が開発中」という話だ。

ニュースについては以下のサイトで読めるので、興味があるならぜひ目を通しておいてほしい。
 
オキシトシンが自閉症の治療薬に使えるのでは、という話は目新しい話ではない。
東京大学が2013年にプレスリリースしており、今回の特集もこのプレスリリースから目新しい発展があったわけではない。
 
プレスリリースは以下のとおりだ。

ホルモンの1種であるオキシトシン注2)をスプレーによって鼻から吸入することで、自閉症スペクトラム障害において元来低下していた内側前頭前野注3)と呼ばれる脳の部位の活動が活性化され、それと共に対人コミュニケーションの障害が改善されることを世界で初めて示しました。

ただ、ボクは以前から「オキシトシンが自閉症の治療薬になる」という話には以前から違和感を持っている。
いや、オキシトシンがコミュニケーション改善に効果がない、というわけではない。
むしろ、オキシトシンを吸入することで人の表情を読み取りやすくなり、自閉症のある方が日常生活を送りやすくなるなら大歓迎だ。
もし、薬剤として認可され、安く投薬できるなら希望にもよるが、あおも使用すればよいのではないか、とも思っている。

では、何に違和感を感じているのか。
それは「オキシトシンを吸引すれば『自閉症』が『治る』」かのような表現が気になるのだ。

ボクは「聴覚障害」「ADHD」を持っている。
「聴覚障害」に対しては人工内耳と補聴器、ADHDに対しては「コンサータ」「ストラテラ」という薬を利用して「対処」している。
この「対処」によって日常生活を送り、仕事もなんとかできて日々生計を立てることができている。
しかし、この状態を「障害が無いのか」というと、「それは違う」と言いたいのである。
障害とは一生付き合っていくものである。
だから、「障害は治る」という表現には違和感を持つ。
(精神障害のような「治る」とされてるものに対してはまた別であるが)
だから、「オキシトシンを吸引すれば自閉症という障害がなくなる」というような報道にはやはり疑問を感じてしまう。

いや、「軽減するなら治るのと同じことではないか」という意見もまたあるだろう。
しかし、ボクは人工内耳を入れて電話もなんとか出来るようになった。しかし、この状態でも「聴覚障害は治った」とは言わないだろう。
自閉症についても、同じことである。
 
「治る」という言葉は魅力的だ。
聴覚障害に対しても「人工内耳を入れて聴覚障害を『治す』」という言葉を見ることがある。
しかし、それはとても危険なのだ。
人工内耳を入れても、聴覚障害者は聴覚障害者であり、決して健常者にはなれないのだ。
その事実を突きつけられら時、心おられる聴覚障害者や保護者は決して少なくない。
 
私の知っている例を挙げよう。

ある児童養護施設に行ったことだ。人工内耳をつけている子がいたのだが、全くしゃべらないし反応もしない。
「あの子はどうしたのですか」とボクは聞いた。
職員の方は
「あの子は人工内耳の手術をしたんです」
「でも、人工内耳をつけてもコミュニケーションがうまく取れず、親から虐待とネグレクトを受けてここに来たんです」
と答えてくれた。

これはあくまでもボクの推測だが、彼の親は人工内耳を入れたら健常者のようにコミュニケーションを取ることを夢見て手術を決断したのだろう。
しかし、それがかなわず、悔しくて悲しくて、彼を虐待してしまったのではないかと思うのだ。
 
人工内耳とは人によって効果が全く違うものだ。
また、リハビリにも根気がいるし、辛くて途中で挫折することも多いのだ。
もちろん、医者や言語聴覚士の努力で年々、成功率は高まっている。
それでも、この子のように「失敗」してしまう子もいる。
その「失敗」の度合いは手術を受ける本人や保護者の期待値によって変わる。
だから、人工内耳を入れることは「健常者と同じようになることではない」という「覚悟」をしなくてはならない。

聴覚障害だけではない。どんな障害でも、障害を支援する技術がどう高まっても「ナマの自分」は健常者にならないのだ。
そして、「治る」という言葉をどう捉えるか。
「健常者と同じようになる」という設定をしてしまえば、それは叶わない。
その期待が裏切られた時、人は二度障害によって心をへし折られるのではないか、と考えてしまうのだ。

それゆえ、ボクは「障害が治る」という言葉にとても危うさを感じてしまうのだ。

また、今朝のニュースやプレスリリースをもう一度読んで欲しい。
「表情を読み取れるようになる」とは書いているが、自閉症の障害はコミュニケーションの問題だけではない。
面倒だから羅列はしないが、その一例を知りたければ、「ボクの彼女は発達障害」を購入の上、勉強すると良い。
ちょっと読んだだけで、自閉症といっても多岐多様の困難が生じると理解いただけると思う。
あくまでも「人の表情が読みやすくなりました」という「だけ」に過ぎない。

だが、大半の視聴者はこの番組を見て「自閉症は『すべて』治るのか」という「誤解」を受けてしまうだろう。
その視聴者の中に「自閉症者」「自閉症児の親」が相当数いることも用意に想像がつく。

「そうか、治るのか…では、試してみよう」
その先に、何があるのかは今のボクにはわからない。
だが、ハッピーエンドだけではないのは、確実だ。

だから、あえて警鐘を鳴らそう。

「自閉症は治らない!」

「障害者は健常者にはなれない!」

これが、31年間を障害者として生きてきた人間からの、後輩となる障害者へのメッセージである。

あ、障害者として生きるのも、そう悪いもんじゃないですよ?
くらげについて

聴覚障害(2級)とADHD(診断あり)と躁うつ病患者の三重苦ですがなんとか自立して生きてます。 このブログは障害者としていく意味やらライフハックやら時事ニュースを取り扱っていきます。
同じく発達障害の「あお」と同棲中。結婚はまだかと急かされています。
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