こんばんわ。くらげです。
本日は母校である筑波大学附属ろう学校(聴覚特別支援学校という長ったらしい名前が正式)の文化祭に顔を出してきました。
特に展示物を見回ったり劇や出し物を見学する趣味はないので適当にぶらぶらして知っている人に挨拶したり冷やかしたりするだけなのですが、まぁ、手話を使う機会も少なくなってるし職場のすぐ近くなので交通費もゲフンゲフンと言うわけで毎年顔を出しています。
で、毎年繰り返し思うのは、年々人工内耳をつけた子供たちが増えていることで、今年は3分の1くらいは人工内耳をつけた子供たちでした。
(ボクの人工内耳と補聴器)
特に、両耳につけている子はほとんどいなかったのですが、ここ数年で急に見かけるようになりました。
以前は人工内耳手術は片耳しか保険適用しなかったんですが、最近は二台目にも保険が使えるようになったためだそうです。
最近の事情は追っていないので分かりませんが、年間の人工内耳手術件数はうなぎ登りのようです。
ボクは現状、人工内耳の調整・リハビリには仙台に行かねばならないので、主治医に「東京の病院に紹介状書いて」とお願いしたのですが、曰く、「転院させようにもどこの病院も人工内耳関係は混み合っていて紹介できる先がない」とお断りされたくらいには耳鼻科大繁盛みたいですね。
こういう話を聞いたり、実際に人工内耳をつけた子供が増えるのを見るとボクが人工内耳をつけた11年前とはだいぶ事情が変わったと実感します。
最新のデータは持ってないですが、ボクが人工内耳のセミナーとかに行ってた頃(5年くらい前か)は3~4歳前の手術で適合率8割、それ以降だと6割くらいだったと資料で読みました。
現在も適合率が劇的に改善している、とは聞いていないのですし、聴覚障害者関係のアレやこれやで人工内耳に適合しなかった本人やら身内から「くらげさんは人工内耳が適合してうらやましいですね」という半分怨嗟の声を聞くことは珍しいことでもないので、まぁ、適合しないこともそう珍しくないことです。
ボクが手術を受けた頃は、人工内耳が適合するかどうかは実際に手術してしないとわからない、ある意味賭けと言う認識でした。
ボクの場合「SFっぽいから受けてみたいし、失敗しても別にいいや」ってくらいに軽い気持ちでしたけど、本当に切実に「聞こえること」を求める人の人工内耳に対する期待や切実感はすさまじいものがありましたな。
一方、最近は、子供の聴覚障害が分かると、耳鼻科医は真っ先に人工内耳を奨めるそうです。
なんつーか、人工内耳のカジュアル化がすごいなーと。
それ自体にいろいろ論争が巻き起こっているのですが、ボクが気になるのは聴覚障害者本人や親御さんに「適合しないことが珍しくない」ということが充分に伝わっているかです。
あまり「人工内耳の手術に失敗した声」というのはネットにはあまり転がっていないのですが、少なくない割合でいるわけです。
そういう事情を知らずに手術をして、適合しなかったときの絶望感はどれほどのものでしょうか。
一方で、手話を第一言語とするろう教育をはじめ、人工内耳なんぞ使わなくても「立派な社会人」になるいくつもあるんですよ。
親御さんが十分な情報を得られずに人工内耳だけを「聴覚障害児が生きる道」だと考えてしまうといろいろ不幸なのではないか、とボクは思います。
まぁ、コク○アさん、鼻薬の話も聞こえてくるくらいには営業力がアレっすよ?北海道のあれやこれやとか。その割にセミナーしょぼいですよ大丈夫なんですか、とかいろいろありますけど。
で、一方、ろう者サイドもこの人工内耳浸透に全然抵抗できてないわけで。
っか、こっちもこっちで人工内耳に関していろいろトラブルを俺に持ち込んできたのが一度や二度でねぇからな?と軽く切れそうになる事案もあるので、はい。
まぁ、人工内耳適合してある程度は電話ができるようになるまで回復したのと同時に、ろう学校出身で手話を習得してる立場のボクは「こうもり的」なところがあって、「どっちがいい」とも「どっちが悪い」とも言えないですね。
ただ、ボクは「聞こえないこと」自体が悪いことでもないですし、聞こえない状態を否定することは意味がないという主義です。
「耳が悪いことが不幸だ」と受け止めてしまう心こそが不幸なんですね。
(筑波大学附属ろう学校の大先輩たる松橋英司さんの言葉ですが)
「耳が悪い=不幸→人工内耳をつければ不幸じゃなくなる」という図式から人工内耳をつけるのはおすすめしないです。
人工内耳を必要としない状況を整えて、その上で人工内耳の手術をする、というくらいがいいんでないかと。理想論ですけど。
長々と書いてきましたけど、それ以上に「人工内耳をつけた子供の親とそうでない親の派閥」ってのがすげーはっきり見えてて、これ、子供の道徳教育的にすげー難しい舵取りがろう学校に求められそうなんですけど大丈夫なんですかね。
某ろう学校の先生が「人工内耳を付けた子が付けてない子を見下してる」とか愚痴ってましたよ。
それだけ、親が人工内耳を付けたことに対して特別意識を持ってるんでしょうけど、人工内耳が医者が驚くほどに適合したボクが実のところ(ピー)で(ピー)が(ピー)な時点で人工内耳が適合したところでくずはくず、という事実には変わりはないわけですけどね!けっ!
と荒れたところで、今日はこのくらいで。
おまけに、6年以上前に書いた人工内耳に関する雑感貼っておきます。
恥ずかしいからわざと読みにくくしておきますけど。
では。
本日は母校である筑波大学附属ろう学校(聴覚特別支援学校という長ったらしい名前が正式)の文化祭に顔を出してきました。
特に展示物を見回ったり劇や出し物を見学する趣味はないので適当にぶらぶらして知っている人に挨拶したり冷やかしたりするだけなのですが、まぁ、手話を使う機会も少なくなってるし職場のすぐ近くなので交通費もゲフンゲフンと言うわけで毎年顔を出しています。
で、毎年繰り返し思うのは、年々人工内耳をつけた子供たちが増えていることで、今年は3分の1くらいは人工内耳をつけた子供たちでした。
(ボクの人工内耳と補聴器)
特に、両耳につけている子はほとんどいなかったのですが、ここ数年で急に見かけるようになりました。
以前は人工内耳手術は片耳しか保険適用しなかったんですが、最近は二台目にも保険が使えるようになったためだそうです。
最近の事情は追っていないので分かりませんが、年間の人工内耳手術件数はうなぎ登りのようです。
ボクは現状、人工内耳の調整・リハビリには仙台に行かねばならないので、主治医に「東京の病院に紹介状書いて」とお願いしたのですが、曰く、「転院させようにもどこの病院も人工内耳関係は混み合っていて紹介できる先がない」とお断りされたくらいには耳鼻科大繁盛みたいですね。
こういう話を聞いたり、実際に人工内耳をつけた子供が増えるのを見るとボクが人工内耳をつけた11年前とはだいぶ事情が変わったと実感します。
最新のデータは持ってないですが、ボクが人工内耳のセミナーとかに行ってた頃(5年くらい前か)は3~4歳前の手術で適合率8割、それ以降だと6割くらいだったと資料で読みました。
現在も適合率が劇的に改善している、とは聞いていないのですし、聴覚障害者関係のアレやこれやで人工内耳に適合しなかった本人やら身内から「くらげさんは人工内耳が適合してうらやましいですね」という半分怨嗟の声を聞くことは珍しいことでもないので、まぁ、適合しないこともそう珍しくないことです。
ボクが手術を受けた頃は、人工内耳が適合するかどうかは実際に手術してしないとわからない、ある意味賭けと言う認識でした。
ボクの場合「SFっぽいから受けてみたいし、失敗しても別にいいや」ってくらいに軽い気持ちでしたけど、本当に切実に「聞こえること」を求める人の人工内耳に対する期待や切実感はすさまじいものがありましたな。
一方、最近は、子供の聴覚障害が分かると、耳鼻科医は真っ先に人工内耳を奨めるそうです。
なんつーか、人工内耳のカジュアル化がすごいなーと。
それ自体にいろいろ論争が巻き起こっているのですが、ボクが気になるのは聴覚障害者本人や親御さんに「適合しないことが珍しくない」ということが充分に伝わっているかです。
あまり「人工内耳の手術に失敗した声」というのはネットにはあまり転がっていないのですが、少なくない割合でいるわけです。
そういう事情を知らずに手術をして、適合しなかったときの絶望感はどれほどのものでしょうか。
一方で、手話を第一言語とするろう教育をはじめ、人工内耳なんぞ使わなくても「立派な社会人」になるいくつもあるんですよ。
親御さんが十分な情報を得られずに人工内耳だけを「聴覚障害児が生きる道」だと考えてしまうといろいろ不幸なのではないか、とボクは思います。
まぁ、コク○アさん、鼻薬の話も聞こえてくるくらいには営業力がアレっすよ?北海道のあれやこれやとか。その割にセミナーしょぼいですよ大丈夫なんですか、とかいろいろありますけど。
で、一方、ろう者サイドもこの人工内耳浸透に全然抵抗できてないわけで。
っか、こっちもこっちで人工内耳に関していろいろトラブルを俺に持ち込んできたのが一度や二度でねぇからな?と軽く切れそうになる事案もあるので、はい。
まぁ、人工内耳適合してある程度は電話ができるようになるまで回復したのと同時に、ろう学校出身で手話を習得してる立場のボクは「こうもり的」なところがあって、「どっちがいい」とも「どっちが悪い」とも言えないですね。
ただ、ボクは「聞こえないこと」自体が悪いことでもないですし、聞こえない状態を否定することは意味がないという主義です。
「耳が悪いことが不幸だ」と受け止めてしまう心こそが不幸なんですね。
(筑波大学附属ろう学校の大先輩たる松橋英司さんの言葉ですが)
「耳が悪い=不幸→人工内耳をつければ不幸じゃなくなる」という図式から人工内耳をつけるのはおすすめしないです。
人工内耳を必要としない状況を整えて、その上で人工内耳の手術をする、というくらいがいいんでないかと。理想論ですけど。
長々と書いてきましたけど、それ以上に「人工内耳をつけた子供の親とそうでない親の派閥」ってのがすげーはっきり見えてて、これ、子供の道徳教育的にすげー難しい舵取りがろう学校に求められそうなんですけど大丈夫なんですかね。
某ろう学校の先生が「人工内耳を付けた子が付けてない子を見下してる」とか愚痴ってましたよ。
それだけ、親が人工内耳を付けたことに対して特別意識を持ってるんでしょうけど、人工内耳が医者が驚くほどに適合したボクが実のところ(ピー)で(ピー)が(ピー)な時点で人工内耳が適合したところでくずはくず、という事実には変わりはないわけですけどね!けっ!
と荒れたところで、今日はこのくらいで。
おまけに、6年以上前に書いた人工内耳に関する雑感貼っておきます。
恥ずかしいからわざと読みにくくしておきますけど。
では。
お久しぶりです。
私の母親が今度請われて人工内耳についての講演会で講演をするため、私の意見も欲しいとの事で、母への返信で私の人工内耳に関する雑感を書いてみ ました。大変長いですが、自分の見解がかなりまとまったと思っており、人工内耳をつけようとしている方の参考に少しはなるのではないかと思い、メール内容 を公開してみます。人工内耳に興味のある方に一ユーザーの意見として読んでいただければ誠に幸いであります。
以下転載です(一部伏字)
こんにちわ。
メールありがとうごいます。
質問点についてちょっと細かく解説いたします。
> 不便な点も多くあるけど、良くなった点もあるわけですよね。
私の場合は人工内耳がよく適合していたので、トータル的に考えてよかったと思います。
特に、聞き取り能力は手術後1年あたりから非常に向上し、環境にもよりますが、初対面ではまず耳が悪いと気
付いてもらえないレベルです。(前もっ て耳が悪いと伝えることが殆どですが)
ただ、前に比べて向上したという話であって、完全に健常者と同一とは行きません。健常者と難聴者の狭間で、どのような支援をしてもらえばいいの か、というのは非常に悩むところです。
職場や○○○の勉強会でも最初20分~30分はほとんど支援なしでも話が理解できるのですが、それを超えると疲れて聞き取りに支障が出ることがあ ります。
また、人工内耳の影響とは外れますが、もともと、長い会話を音声だけで長時間聞き取るという訓練を殆どしていないため、短いセンテンスを的確に捕 らえる事は出来ても、それを話全体にあてはめて理解するというのは苦手なので、長時間に渡る会議や講演はPCテイクやノートテイクが必須になります。(そ ういう意味では、子供のころから人工内耳を付けて訓練するというのは有効だと思います。しかし、単語単語を聞き取るだけではなく、話されている文章全体の 意味を理解するという訓練が重要だと私は思うのですが、実際の訓練はどうなんでしょうか?)
言葉は理解できても、文脈がなかなか理解できないため、一度文章化されたものを見ると言う過程が話の理解向上につながるのですね、私の場合は。
「声は聞こえるが文脈は理解できない」という事を伝えるのがなかなか難しく、聞こえてるから・話せているから支援は必要ないじゃない、という対応 を取られることがあります。
また、私自身も支援を受けるのを臆して、(相手が忙しかったり、人手が無かったりした場合)は声が聞こえるからいいかな、等と考えて支援を申請し ない場合もあります。
なので、人工内耳を入れたことで、入れなかった場合よりも、支援を受けるのは難しくなったな、というのはありますね。(自分の意識的にも、支援側 にとっても、です)
ただ、支援なしでも、人工内耳が無い場合よりも理解できる絶対量は確実に増えているので、元々支援を得られない場合については人工内耳は非常に有 効なのは間違いないです。
> 補聴器と比べて、重いですか?
付けた直後は重さを感じる事がありますが、まぁ正直気にするほどではないですね。
むしろ、補聴器より動きによって外れやすい事がちょっと問題でしょうか。もうちょっとフィット感がいい人工内耳が出ないかとは思いますね。
> また聴こえ過ぎて雑音や生活環境音がうるさく聞こえるのですか?
私の場合、子供のころから補聴器を付けるのは必要な時でして、人工内耳もその延長で必要な時だけ付けています。
その為、未だに雑音や生活環境音に慣れておらず、聞き続けるのが非常に苦手なのです。
(弟)からは何時もつけてるように言われることもありますが、私の場合、そのような音が聞こえないのが当たり前なので何時も補聴器や人工内耳を付 ける気はないんですよね。
チャイムが鳴った事に気付かなかったり、道を歩いているときに後ろから車が来た場合は危ないのは分っているのですが…。
人工内耳をつけてから、本当に小さな音でも気付くので、聞こえる生活環境音の幅が非常に広がりました。便利な点もあるのですが、やはり喧しいとい うのが本音です。
人工内耳を常に付けているか、必要な時だけ使えばいいのか、についてはユーザーによるんじゃないでしょうか?
多分専門家は常に付けていることを推奨すると思いますけどw
> 音楽は補聴器の方が聴こえやすいとか言っていましたが、今はいかが?
音楽については、補聴器も人工内耳も付けずに聞いています。今はそれでも特に不便は感じていますせん。
補聴器や人工内耳を通して音楽を聞くと、生耳で聞いてると音と別物に感じて訳がわからなくなるのですよね。
ただ、今以上に右耳が聞こえなくなったら人工内耳や補聴器を通して音楽を聞くことになると思います。
そうしたら、人工内耳を通しても普通に音楽を楽しむことになるんじゃないでしょうか。
試しに人工内耳を通して音楽を聞いてみると、確かに細かい音の差が分るのですが、生耳で聞こえない部分も聞こえるので違和感がありますね。
> 補聴器と人工内耳を装用しているけど、人工内耳単装と比べるとどうでしょう?
これは、前に先生に話した事があるのですが、絵に例えて説明します。
人工内耳は非常に輪郭がはっきりとしたシャープな絵ですが、モノクロの絵のイメージです。
逆に、補聴器は輪郭ははっきりしないけども、カラフルな絵の感じです。
なので、両方同時に聞いて初めて絵の全貌が理解できる、というのが私の感触です。
分りにくいと思いますので、もうちょっと解説すると、人工内耳の音は言葉がシャープに聞こえるのですが、音に厚みが無いのですよね。(最近は人工 内耳単体でも厚みを感じるようになりました)
厚みが無い声というのは、なんか無機質でロボットみたいな声です。(多分分らないと思いますが、初音ミクの声もあんまり厚みが無いと思います。そ んな声です)
逆に、補聴器は声の厚みは感じるのですが、言葉の輪郭があやふやに聞こえる感じです。
両方付けた場合、頭の中で合成されて、厚みがあってシャープに聞こえる声になるんですね、私の場合。
説明が非常に抽象的ですいませんが、こんな感じです。
逆に母はどう聞こえているのかが気になりました。
> (私の名前)だったら、自分と同じような聴力の人に人工内耳を勧めますか?
非常に難しい問題です。というものも、私の場合、聾と難聴者のアイデンティティという問題を考えてしまうからです。
私も人工内耳を付けるとき、非常に渋ったと思いますが、これも自分のアイデンティティの問題があったからです。
私は聾学校で過ごしていて、私よりも全然聞こえない人と普通に接していたため、自分も聞こえない事が当たり前だ、自分は聾だという意識がありまし た。
更に言うと、他のみんなより聞こえる自分に罪悪感を持ったりしていたわけですね。
もちろん、人工内耳を入れるメリットは理解していましたし、興味もありました。(科学やSFは大好きですから、自分の身にどのような変化が起きる かに興味はありました)
ただ、人工内耳を入れる事は聾ではなくなる、いう意識があるのと同時に、さらに聞こえるようになる事に対して罪悪感が乗じて複雑な葛藤が生まれた わけです。
結局、好奇心と社会に出てからの事を考えて人工内耳を入れる決断をしたわけですが。(社会人になってから人工内耳を入れる時間はないと思っていた のもあります)
で、同じような聴力の人に人工内耳を薦めるかと言えば、相談があれば人工内耳のメリットは説明しますが、デメリットも説明して、後の決断はその人 に任せます。
聴力についての考えや辛さ、人工内耳に関する認識はその人その人でバラバラだと思いますし、それを尊重したいと思うからです。
なので、特段こちらからお勧めをすることはないでしょう。人工内耳の手術を受けて聴力が向上する事だけがいい事ではないと思うからです。
ただ、私の中でも結論が出ていないのは、幼児に対する人工内耳手術の賛否です。
というものも、先ほど私が書いた意見はあくまでも「本人の意思による」事が前提になっていますが、本人の意志がはっきりしない幼児の段階で人工内 耳を入れる事ははたしていいことなのか?と思うからです。
臨床データでも幼児の早い段階で人工内耳を入れる事が言葉の発達にいい影響を与えると言う結果が出ていると思われますが、運動に制限を受けたり、 キツイ訓練を受けたりする必要があるわけです。
また、今の段階でも幼児期に人工内耳を入れても、確実に聴力が回復するという保証はありません。
幼児期の場 合、その結果が分るのは何年も先でしょう。
人工内耳を入れたから、確実にその子の未来が明るいとは限りません。
また、その子自身が大人になってから人工内 耳の手術を受けさせられた事を否定する可能性もないわけでもないと思います。
幼児に人工内耳を入れる事は、大きなメリットが期待できると同時に、大きなリスクを孕んでいることも考えると、気楽に幼児に人工内耳を入れる事を 薦める気にはなりません。
これは親の覚悟の問題になると思います。
親に言う事があるとすれば、安易に人工内耳を入れる事で、子供が健常者と同程度になれると思ったら、親本人も子供自身も大変な挫折感を覚える事で しょう。
人工内耳を入れるという事は、健常者とは全く違ったタイプの音を脳内で言葉として理解しなければならないという事で、当然訓練が必要でしょう。
私の場合は、言語能力はそれなりに訓練を積んだ状態で人工内耳を入れましたが、それでも最初の半年間は常に耳の中でセミが鳴っている感じで、人工 内耳を入れた事を後悔したほどです。
その苦痛を幼児が味わうとしたら、目を離したらすぐに人工内耳を外してしまうのではないでしょうか。慣れるまでは子供が泣いてもむずがっても人工 内耳を付けさせる苦労は並大抵ではないとおもいます。
また、私自身はよく分らないのですが、幼児期の人工内耳の訓練は、おそらく過酷な物になると思います。その訓練は子供にも親にも大変な苦労だと思 います。それを経ても完全に健常者と同じようにコミュニケーションをとれるようになるのはごく一握りでしょう。
そのような苦労を引き受ける覚悟が合って初めて幼児に人工内耳手術をする資格があると思います。安易な手術は絶対に慎むべきです。
また、人工内耳をつけたからと普通学校に進学させるのも同様に問題を引き起こす可能性があります。
人工内耳はあくまでも補聴手段であって、現在の技術では健常者と同じようになれるわけではないからです。人工内耳と言う技術を過信する事は禁物だ と思います。
例え、全く耳が聞こえなくても教育次第では充分に充実した人生を送れると思いますし、逆に人工内耳を入れても教育がなされなければ宝の持ち腐れに なると思います。
聾児を持つという事は、人工内耳の有無に関係なしに、充分な教育を親・教師・その他関係者が充分な教育を注ぐ必要があるということだと私は考えま す。
長くなった上に、人工内耳に関係ない事も多くなりましたが、今現在、私が人工内耳について考えている事の大半は書けたと思います。
参考になりましたら幸いです。
私が直接講演した方が早いのでは、と思わんでもないですが、人前で話す度胸も知識もないですねw