世界はことばでできている

〜成人期発達障害&聴覚障害者の日常〜

聴覚障害+成人期発達障害(ADHD)が日々考えていることや、聴覚障害者・発達障害者として生きていくライフハックを書いてます。あと、ニュースやら軍事やらについても飛びつきます。とにかく雑多なブログです。

日本一早い発達障害者から「ニコニコ高校」へのラブレター

はわわわわ!?

一昨日書いた「障害が治る」という言葉は暴力であるが2日で3000UUを超えるという偉業を達成いたしました。

ありがとうございます。

このブログは基本的に多くの人に診てもらうことを目的に書いているものではないのですが、それでも多くのアクセスがあることはやはり嬉しいものでございます。

次は1日1万PVを狙えるように頑張りたいと思います。

さて、角川ドワンゴ学園「N高等学校」が2016年4月に開校するそうだ。

以前から「ニコニコ動画が高校を作る」という話は聞いていて、割と気になってはいた。
もちろん、「発達障害者が通いやすい高校になるのだろうか」という視点からである。

「ネットの高校」という時点で、まずよい。
基本的な講座やレポート提出はネットで完結するようだ。
障害児支援、とりわけ発達障害児の支援に関わった経験があるなら、このメリットは理解してくれると思う。

字をきれいにかけない、というか、書けない子が一定数いる。
しかし、タイピングならとても得意な子が多い。

また、レポート用紙をぐしゃぐしゃにしてなくす、ということもないだろう。
(ファイルの管理についてはまた悩むことになるのだが、検索というものがある)

受講時間もリアルタイムで講義に参加しなくとも良いようだ。これもポイントが高い。

発達障害者には非24時間生活者が大変に多い。
朝起きて当たり前に登校して授業を受ける、ということ自体に挫折することも多い。
怠けてるわけでもなく、ふざけてるわけでもなく、そういうリズムなのだから仕方ない。

だから、「自分の好きな時間で好きなペースに」とはいうまでもなく、発達障害者がやりやすい環境だ。

このシステムと似たようなものとしては放送大学がある。
機会があれば発達障害のある放送大学生を探して、インタビューしてみたい。
(通っている、という方がいればぜひ、右側のフォームよりメッセージを頂きたい)

というわけで、「ネットの高校」という単語にすごく興味は持っていたのである。

さっそく、「N高等学校」のサイトを読んでみた。
 
まずトップのスライダーに
「全国のみなさんへ 普通の高校生になって将来どうするの?」
とでかでかと出ている。

いきなり、こんな煽って大丈夫なんだろうか、とニヤニヤしながら心配してしまう。
しかも、そのスライダーをクリックすると「脱 ふつう。」と書いているのである。

自分らしさ伸ばそう、将来のために

「自分らしさ」をもっと出してもいいんじゃない 多くの高校生がみんな同じように学校に行く
それはなぜ? 周りのみんなと同じことが正解?
「自分らしさ」を磨いてみてもいいんじゃない 高校という時間はみんなに平等に振り分けられる
その時間の使い方を自分で決めてもいいんじゃない
勉強でもスポーツでも自分のやりたいことでも 「自分らしさ」を磨いて伸ばす時間を自分で作ろう
磨いて伸ばせば、好きなことで一流になることもできる
新しい時代には新しい時代に合った"学校"で 自分だけの高校生活を自分で作り出そう
脱 ふつう。
 
いいじゃないか。

少なくとも、「ふつうではない」ことにかけては太鼓判がふたつもみっつも押されているボクからすれば、すごくワクワクする。

まぁ、角川ドワンゴがわざわざ開設した時点で普通の高校生は入らないと思うし、イカれた親しか行かせないと思うので、「脱」もなにも最初から「ふつう」の生徒は集まらない気はする。

もちろん、角川ドワンゴもその点は大いに自覚しているのだろう。

カリキュラムからしてまぁ、「エキスパート」を育てよう、という意気込みを大変感じる。

発達障害者に向いている仕事は「クリエイティブ」なものが多いと言われる。(もちろん、障害の重さにもよるが)

というか、「クリエイティブにならざるをえない」といったほうが正しい。

「ふつうの仕事」では能力不足か能力過多になるから発達障害は発達障害なのであって。

そういう意味でも、N高等学校はやはり「とてもワクワクする」存在だ。

ボクはあおから「そろそろ髪の毛のケアに気を使いなよ。手遅れだけど」といわれるくらいのオッサンだが、入れるものなら入りたいくらいに面白そうだ。

だからこそボクはN高等学校に挑戦してもらいたいことがある。
「N高等学校」は「脱 ふつう」だけではなく、「ふつう」でない生徒を「ふつう」でないままに卒業させて欲しいのだ。

人間的な成長とは何かをボクは知らない。
でも、「ふつう」になることを、せめてこの高校は「成長」とはいわないで欲しいのだ。

たとえ一箇所でも、「ふつうでないこと」に価値のある高校がある。
それを信じることができれば、ボクはこの日本という国にさらなる希望をまた一つ見出すことができるのだ。

ボクの夢は、もっと日本を「変」な人であふれさせることだ。
それが日本を面白くする道と信じているからだ。

だから、頑張れ、N高。日本一変な高校になってくれ。
日本を「変」にするマイルストーンになってくれ!
 
これがおそらく日本一早い、N高へのラブレターである。

※N高からのお仕事お待ちしております。

「障害が治る」という言葉は暴力である

ボクは朝はNHKニュースをつけっぱなしにしている。
 
一つ一つ見るわけではないのだが、今、このコーナーだからこうしなきゃ、という目印にしているのだ。
なので、さっと目を通しはしてもじっくり見ることはあまりない。
 
ところが、今日はちょっと気になる特集をしていたので、ちょっとじっくり見てしまった。
「自閉症の治療薬が開発中」という話だ。

ニュースについては以下のサイトで読めるので、興味があるならぜひ目を通しておいてほしい。
 
オキシトシンが自閉症の治療薬に使えるのでは、という話は目新しい話ではない。
東京大学が2013年にプレスリリースしており、今回の特集もこのプレスリリースから目新しい発展があったわけではない。
 
プレスリリースは以下のとおりだ。

ホルモンの1種であるオキシトシン注2)をスプレーによって鼻から吸入することで、自閉症スペクトラム障害において元来低下していた内側前頭前野注3)と呼ばれる脳の部位の活動が活性化され、それと共に対人コミュニケーションの障害が改善されることを世界で初めて示しました。

ただ、ボクは以前から「オキシトシンが自閉症の治療薬になる」という話には以前から違和感を持っている。
いや、オキシトシンがコミュニケーション改善に効果がない、というわけではない。
むしろ、オキシトシンを吸入することで人の表情を読み取りやすくなり、自閉症のある方が日常生活を送りやすくなるなら大歓迎だ。
もし、薬剤として認可され、安く投薬できるなら希望にもよるが、あおも使用すればよいのではないか、とも思っている。

では、何に違和感を感じているのか。
それは「オキシトシンを吸引すれば『自閉症』が『治る』」かのような表現が気になるのだ。

ボクは「聴覚障害」「ADHD」を持っている。
「聴覚障害」に対しては人工内耳と補聴器、ADHDに対しては「コンサータ」「ストラテラ」という薬を利用して「対処」している。
この「対処」によって日常生活を送り、仕事もなんとかできて日々生計を立てることができている。
しかし、この状態を「障害が無いのか」というと、「それは違う」と言いたいのである。
障害とは一生付き合っていくものである。
だから、「障害は治る」という表現には違和感を持つ。
(精神障害のような「治る」とされてるものに対してはまた別であるが)
だから、「オキシトシンを吸引すれば自閉症という障害がなくなる」というような報道にはやはり疑問を感じてしまう。

いや、「軽減するなら治るのと同じことではないか」という意見もまたあるだろう。
しかし、ボクは人工内耳を入れて電話もなんとか出来るようになった。しかし、この状態でも「聴覚障害は治った」とは言わないだろう。
自閉症についても、同じことである。
 
「治る」という言葉は魅力的だ。
聴覚障害に対しても「人工内耳を入れて聴覚障害を『治す』」という言葉を見ることがある。
しかし、それはとても危険なのだ。
人工内耳を入れても、聴覚障害者は聴覚障害者であり、決して健常者にはなれないのだ。
その事実を突きつけられら時、心おられる聴覚障害者や保護者は決して少なくない。
 
私の知っている例を挙げよう。

ある児童養護施設に行ったことだ。人工内耳をつけている子がいたのだが、全くしゃべらないし反応もしない。
「あの子はどうしたのですか」とボクは聞いた。
職員の方は
「あの子は人工内耳の手術をしたんです」
「でも、人工内耳をつけてもコミュニケーションがうまく取れず、親から虐待とネグレクトを受けてここに来たんです」
と答えてくれた。

これはあくまでもボクの推測だが、彼の親は人工内耳を入れたら健常者のようにコミュニケーションを取ることを夢見て手術を決断したのだろう。
しかし、それがかなわず、悔しくて悲しくて、彼を虐待してしまったのではないかと思うのだ。
 
人工内耳とは人によって効果が全く違うものだ。
また、リハビリにも根気がいるし、辛くて途中で挫折することも多いのだ。
もちろん、医者や言語聴覚士の努力で年々、成功率は高まっている。
それでも、この子のように「失敗」してしまう子もいる。
その「失敗」の度合いは手術を受ける本人や保護者の期待値によって変わる。
だから、人工内耳を入れることは「健常者と同じようになることではない」という「覚悟」をしなくてはならない。

聴覚障害だけではない。どんな障害でも、障害を支援する技術がどう高まっても「ナマの自分」は健常者にならないのだ。
そして、「治る」という言葉をどう捉えるか。
「健常者と同じようになる」という設定をしてしまえば、それは叶わない。
その期待が裏切られた時、人は二度障害によって心をへし折られるのではないか、と考えてしまうのだ。

それゆえ、ボクは「障害が治る」という言葉にとても危うさを感じてしまうのだ。

また、今朝のニュースやプレスリリースをもう一度読んで欲しい。
「表情を読み取れるようになる」とは書いているが、自閉症の障害はコミュニケーションの問題だけではない。
面倒だから羅列はしないが、その一例を知りたければ、「ボクの彼女は発達障害」を購入の上、勉強すると良い。
ちょっと読んだだけで、自閉症といっても多岐多様の困難が生じると理解いただけると思う。
あくまでも「人の表情が読みやすくなりました」という「だけ」に過ぎない。

だが、大半の視聴者はこの番組を見て「自閉症は『すべて』治るのか」という「誤解」を受けてしまうだろう。
その視聴者の中に「自閉症者」「自閉症児の親」が相当数いることも用意に想像がつく。

「そうか、治るのか…では、試してみよう」
その先に、何があるのかは今のボクにはわからない。
だが、ハッピーエンドだけではないのは、確実だ。

だから、あえて警鐘を鳴らそう。

「自閉症は治らない!」

「障害者は健常者にはなれない!」

これが、31年間を障害者として生きてきた人間からの、後輩となる障害者へのメッセージである。

あ、障害者として生きるのも、そう悪いもんじゃないですよ?

ブログに出戻るということ/そして世界は美しい

あおがブツブツ言っている。

あおは独り言が多い。特に作業中はそうだ。
つまり、あおはいま作業中ということだ。
そして、その作業をお願いしたのはボクだ、ということで、あおのひとりごとはボク一人で耐え忍ばなければならない。

なにをさせているかというと、このブログのヘッダーを作らせている。
見ればわかると思うが、いまブログのデザインをまともに見られるように改装中だ。
しかし、ブログを立ち上げたのは数年ぶりであるが、本当に簡単になったものだ。

ボクが最初にホームページをつくったのは高校時代で、ジオシティーズというものがあってだな。
侍魂の影響をもろに受けたテキストサイトが雨後の竹の子のようにできてた時期にだな。
ろじっくぱらだいすとかが大好きだったという時点で、内容はまぁ察していただきたい。
そのホームページをまだ覚えている人がいたら、即効脳内から削除することを依頼する。
 
話がそれた。
なにげにホームページを作ってから14年以上経つ間にネットコンテンツを作るツールも発展を遂げた。
以前は見よう見まねでコピペしたツールをあーでもないこーでもないと弄くっていたのが、ドラックするだけでレイアウトが完成していく。
31歳のオジサンとしてはもはや感動的とも言えるくらいの簡単さだ。

しかし、だからといってネットに良質なコンテンツが溢れているのかというと、残念ながら話はそう簡単ではない。
簡単になったのは「器」の作り方だけなのだから。

「良いブログ」とは「中身」がなければならないとボクは思う。
でなければ、SNSから出戻ったモノとしては「ブログの意味」がないからだ。
写真をアップして「美味しかった」とかくだけなら、過去ならいざしらず、今でもそれで拡散力を持つのは芸能人くらいだろう。
10年前ならいざしらず、そういうことを書くならSNSのほうが簡単だし反応も得やすいだろう。
実際、ボクもここ5年ほどはツイッターとFBにお世話になりっぱなしだ。
 
それでも、ボクが「ブログ」を書く意味とは、やはり「文章を書くこと」の原点に立ち返りたくなったからだ。
文章を書くということは自分との対話だとよく言われる。
臭い話だが、セルフカウンセリングともいえる。
ともすれば、外側に重心を移して(放り投げてともいう)罵詈雑言の応報に明け暮れやすいのもSNSだ。
それに比べれば、ブログは(まだましな意味で)閉じているだろう。
そして、「閉じている」からこそ、一つひとつの言葉を選び、自分の伝えたいことを発見していく。
その自分との対話の果てにできたものを人に見てもらい、それを評価してもらう、というのが非常に楽しいのだ。

どれだけ簡単にブログという器を作れても、その中身を作るのはボク自身だ。
このブログがどう成長していくか。
それは今後のボクの頑張りにかかっている。

まぁ、あおなんかは「テキトーにやりなよー」と言いながらヘッダーを作っているのだが。

ところで、ブログがどんだけテンプレートを準備していても、テンプレートから外れたことはとたんに難しくなる。
これについては、発達障害の問題と構造化、というができそうなのだが、今後膨らんだらまた考えてみたいテーマだ。
 
というところで、あおがヘッダーを作り終えたので、これくらいで。
 
ああ、なんの中身もないブログ記事だった。

ところで、あおが「あんたの新しいブログのタイト、随分前と変わったね」という。

あお「『明日なんて信じられない僕らのために』だっけ、最初のHPのタイトル」
俺「やめてください死んでしまいます」
あお「随分、世界を信じられるようになったね」
俺「そうかもしれんな、いや、そうなのかもな」
あお「たぶんね」

まぁ、そういうことなのだろう。ありがとう、あお。

くらげについて

聴覚障害(2級)とADHD(診断あり)と躁うつ病患者の三重苦ですがなんとか自立して生きてます。 このブログは障害者としていく意味やらライフハックやら時事ニュースを取り扱っていきます。
同じく発達障害の「あお」と同棲中。結婚はまだかと急かされています。
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